見えないピアノ 8 [見えないピアノ(自叙伝、のような)]
Bクラスが何年続こうと、地元6連戦で6連敗しようと、
主審とほぼ同じ目線で試合を見ることが出来る幸せがあるから
「辛い」と思ったことは一度もなかった。
4時間規定がなかった頃は気がつくと日付が変わりそうになることもあったけれども、
スポーツニュースでは取り上げられないような細かいファインプレーや
これぞプロと唸らされる送りバントなどをつぶさに見られる喜びに満ちていた。
コンピューターのトラブルでスコアボードが真っ黒になっても、審判の方が急病で倒れられても、
突発的に発生した音の隙間を埋めていくのはオルガンの仕事であり、
それが先生と私たちの「プライド」にもつながっていた。
リーグ初制覇の瞬間は今も忘れがたい。1999年、9月25日。
溢れる涙をぬぐいながら見たあの胴上げは、今も私の支えとなっている。
それから幾星霜。ホークスの呼び名が「ダイエー」でなくなった翌年の2月、
先生と私たちスタッフはオルガン演奏者としての役目を終えた。
新しい親会社は生演奏を必要としなかった、らしい。時代の流れと言えばそれまでだけれど、
一度だけ球場に足を運んで聞いた演出の音はとても乾いていて、切ない思いに駆られた。
そんな小さな変化に気づいて下さっている人はほとんどおられないと思いながらも、
ホークスファンの方のサイトで「生演奏がよかった」「ヒットの時の音が懐かしい」
などという書き込みを見つけたりすると胸がきゅんと締めつけられる。
仕事を失ってしばらくは「自分の居場所」をなくした寂しさでいたたまれなかったが、
今年はもう大丈夫。ずいぶんと平常心で野球を感じることが出来そうだ。
これからは純粋に一人のファンとして、楽しく応援していきたい。
目の前に楽器がなかったあの10年があればこそ、今の私がある。
思えば人生とは不思議なものだ。もしも家庭が裕福であり続け、
途切れることなくピアノを習っていたならば、私は音楽に関わることは出来ても
「ハモンドオルガン」と出会い、運命の糸に引き寄せられるようにあの先生と巡り会って
野球の仕事をすることはなかっただろう。
そう思えば、辛かったはずのあの10年さえもどこか愛おしい。
私の中に「見えないピアノ」を作ってくれたあの10年に、
心から「ありがとう」と言いたい今の私である。
完
見えないピアノ 7 [見えないピアノ(自叙伝、のような)]
手の届かないところにあったはずの夢が、
先生との出会いで突然私の目の前に「現実」として舞い降りた。
それからは先生に会うたびに「また球場に連れて行って下さい。」と懇願し、
幾度となく同行しては見習いのようなことをさせてもらっていた。
そんなある日のこと。先生が「貴女、野球の仕事、本格的にやってみる?」と私に言った。
まさしく、夢が実現した瞬間だった。
先生と私たちスタッフが仕事をしていた平和台球場のオルガン室は
バックネットのほぼ真後ろの高い所、ラジオの放送ブースのすぐ横にあった。
オープン戦の時期は時として震えるほど寒く、
8月の炎天下においては気が遠くなるほど暑かったけれど、
そこで働く日々は言葉に表せないほどに楽しく充実していた。
時折ファールボールが飛び込んできたり、新人アナウンサーの方が懸命に
実況の練習をしているのが聞こえてきたり。
野球の醍醐味を自分の肌で直に感じる幸せは何物にも代え難かった。
時を経て平和台球場はホークスのフランチャイズとなり、
さらに数年後、その場所は福岡ドームへと移された。
忘れがたい思い出は数限りなくあるけれど、オープンを記念するイベントとして行われた
「パリーグトーナメント」はその中でも格別だった。
福岡ドームの開業からほとんど間がなく、スタッフも右往左往している中で
パリーグのチームが総当たりで試合を行い、三日間で決着をつけるという
およそ無謀なイベントで、一日あたりの試合数は三ゲーム。
バッターボックスに打者が向かう時に演奏する曲として
各選手の応援テーマを弾くことになっていたのだが、
ホークスの選手以外の資料はあるはずもなく、他の五球団との対戦を
録画、録音したものから聴き取って資料を作成し、先生と代わる代わる演奏に臨んだ。
頭の中の「見えないピアノ」が何よりも役に立ったのがこの時である。
あまりの忙しさに気が遠くなり「もしかして、私たちはここで死んでしまうのでは。」と
本気で考えるほどであったにも関わらず、思い出すと何故だか顔がほころぶのは、
やはり野球が好きで好きでたまらなかったからだろう。
ー続くー
見えないピアノ 6 [見えないピアノ(自叙伝、のような)]
ハモンドオルガンを買った楽器店に併設された教室で、週に一度レッスンを受けることにした。
紹介されたK先生は小柄な女性で、一曲仕上がるたびに
楽譜の隅っこに小さな字で片仮名の「ス」を書いた。
楽器が弾ける喜びのあまり次から次に新しい曲を練習しては教室に向かった私の楽譜には
たちまち小さな「ス」の文字が並び、私は演奏できたうれしさと共に
何とも控えめでかわいい先生の「ス」を微笑ましく思っていた。
そんなある日のこと、ちょっと事情が変わったので別の先生のところに行ってはくれないか、
と先生が申し訳なさそうに切り出した。
ほかの生徒さんの都合か何かだろうか。残念だけれど、事情があるならば仕方がないと思い、
次の週には新しい先生の元に向かった。
新しい先生は、楽器店の教室ではなく自宅で教えて下さることになっていた。バスを降りて
少し細い路地のような道を入っていくと、音楽教室の看板が掲げられた広い家があった。
この出会いが、のちに私の人生を大きく変えることになる。
新しい先生はとても明るい女性で、人を惹きつける不思議な魅力にあふれた人だった。
たくさんの生徒をかかえ、忙しく活動しておられる先生をあこがれにも似た気持ちで眺めながら、
私はオルガンを弾ける喜びに満たされていた。その頃先生から聞いた話では、
友人であるK先生から「私じゃ手に負えない生徒がいるから、貴女面倒看てくれる?」と
依頼されたのが私だそうだ。
半年ほど経った頃だろうか、レッスンが終わる頃に先生が
「今から野球の仕事に行くから」と教えてくれた。
「野球の仕事って何ですか?」と驚いた声で尋ねる私に、
「プロ野球の試合中に演奏する仕事のことよ。」と先生が言う。
何だって?信じられない。あの球場で鳴り響いていたオルガンを、
私の目の前にいる先生が演奏していたなんて。
「私、野球が大好きだから、学生の頃から何度も球場に行ってたんです!」と先生に話し、
無理に頼み込んで球場に連れて行っていただいた。
試合開始前の演奏が始まると、私が球場を訪れるたびに
「一体どんな人が演奏しているんだろう。」と想像し憧れていたその音が
オルガンからほとばしるように流れてきた。
ー続くー
見えないピアノ 5 [見えないピアノ(自叙伝、のような)]
初めのうちは主旋律と左手の伴奏だけのシンプルだった
私の中の「見えないピアノ」の音の構成は、次第に厚みを増してきた。
主旋律とベース音とハーモニー、ざっと合わせると6から8トラックほどであろうか。
続けるうちに、初めて聴いた曲でも何となくアウトラインが掴めるようになってきた。
この頃にはもう、実際にピアノが目の前にあるかどうかは
さして重要なことではないような気がしていた。
生活は楽でなかったにもかかわらず大学に進ませてもらった私は、
奨学金とアルバイトでやりくりしながら学生寮で暮らしていた。
そんなある日、高校の先輩が「バンドのキーボードをやらないか」と声をかけてくれた。
オリジナルではなく既成のバンドのコピーだったので、
カセットに録音された原曲を繰り返し聴いては、頭の中で練習してスタジオに向かった。
一年も続かなかったし発表の場もなかったが、それでもじゅうぶん楽しかった。
よく分かりもしないのにジャズ喫茶などに足を踏み入れたのもその頃だ。
そこで聴いたジャズオルガンの音に、私は釘付けになった。
日本で作られている電子オルガンとは違う、大人っぽい音。
知識が乏しく楽器の名前は分からなかったが、音だけはしっかりと胸に刻まれた。
就職して最初のお給料を手に、私は楽器店に向かった。
どうしてもあの時聴いた音が忘れられず、何とかしてあの楽器を欲しいと思ったのだ。
お店の人に「音を聴かせて下さい」とお願いしていくつかの楽器店を廻ったが見つからない。
諦めかけながら入ったお店でやっと巡り会った。楽器の名前は、ハモンドオルガンであった。
迷うことなく分割払いで買うことを決め、数日後にはアパートの部屋にオルガンが届いた。
子どもの頃自分の部屋にあった大切なピアノと電子オルガンを失ってから、
ちょうど十年の月日が流れていた。
ー続くー
見えないピアノ 4 [見えないピアノ(自叙伝、のような)]
字面だけ見ると幸福とは言い難いようであるが、私たち三人は意外なほど元気で明るかった。
「私たち三人」というのは、母と弟と私のことだ。
会社の資産を持ち逃げされたショックで健康を害した父は、
数年の入院生活の後にこの世を去ってしまった。
それでも悲劇的な要素が少なかったのは、母が精神的にタフであったことと、
住み込みで働かせてくれた母の勤め先のおかげに他ならなかった。
六畳一間での親子三人の暮らしは、今思い出しても顔がほころぶほど楽しかった。
会社の寮の賄いをしていた母の手伝いをするために、
私や弟も食堂にちょくちょく顔を出していたが、社員の人たちはみな
自分の家族同然に私たちに優しくしてくれていた。
食堂に置かれた卓球台でいつも遊んでもらっていたおかげで、
他の運動は苦手だったが卓球だけは人に負けなかった。懐かしい思い出である。
負けず嫌いの母は、休みの日になると私たちにトランプで勝負を挑み、
まったく手加減しないでいつも勝ちにこだわった。今もその性分は変わらない。
高校に進んでからは、音楽室に自由に出入り出来るコーラス部に入り、
パート練習の合間を縫って好きな曲を弾いたりも出来たので、ずいぶんと幸せな毎日であった。
ー続くー
見えないピアノ 3 [見えないピアノ(自叙伝、のような)]
転校生が毎日のように談話室でピアノを弾いていれば快く思わない人が居ても不思議はない。
学年の違う人たちは気持ちよく接してくれていたが、
同級生の、特に女の子からは無視されることも少なくなかった。
そんなある日、富江ちゃんという女の子が、一人運動場に居た私に話しかけてくれた。
今にして思えば、学校の中で私と遊ぶのは周囲の手前ためらわれたのであろう。
彼女は自分の家に遊びにおいで、と誘ってくれた。それだけで充分嬉しいのに、
何と彼女の家には電子オルガンがあったのだ。言い方は悪いが、まさしく渡りに船。
優しい友人を得た上にオルガンを弾かせてもらえるなんて。
遊びに来たのにひたすら何時間もオルガンの前で好きな曲を弾いている私を
責める様子もなくニコニコと聴いてくれている富江ちゃんを、女神様のようだ、と思った。
それからしばらくしてまた転校してしまったので、富江ちゃんがどんな大人になったのかは
知ることが出来ないが、きっととびきり優しいお母さんになっていることだろう。
以前住んでいた町に戻って中学に進んでからは、
どうにかしてピアノに触りたい一心で、音楽の先生に好かれるよう努力し、
その甲斐あって何かの集まりの際に体育館で演奏させてもらえるようになった。
「なった」のはいいが、自宅には相変わらず紙鍵盤しかない。
先生にそれを告げれば、演奏を断られるに決まっている。
何が何でも渡された楽譜を頭の中で音にして、ほとんどぶっつけ本番で演奏するしかなかった。
上手く行った時の快感は今も忘れがたい。「見えないピアノ」の成長期、である。
ー続くー
見えないピアノ 2 [見えないピアノ(自叙伝、のような)]
それから間もなくして、母の故郷である小さな町へ移り住んだ。
自然に囲まれた穏やかな町の小学校には、談話室のような部屋があって
誰もが自由に出入り出来るようになっており、ピアノが一台設置されていた。
転校してしばらくは少々の遠慮もあってピアノに近づけないでいたけれど、
ある時どうにも辛抱しきれなくなってピアノの前に座った。何を弾いたかは覚えていない。
小学生の女の子のことだから、エリーゼのために、あたりであろうか。
ともかく、その町ではピアノを弾く子が少なかったせいもあって珍しがられ、
他の場所で遊んでいてもピアノの前に連れてこられるようになった。
小さな町のことだから、生徒数もたかが知れている。毎日同じ顔ぶれに同じ曲では
あまりにも芸がないので、覚えている限りの曲を引っ張り出して弾いていたが、
そのうちに「リクエスト」が来るようになった。
音楽の教科書に載っている曲もあれば、テレビで流れてくる歌謡曲もある。
ここで「弾けない。」と言ってしまったら終わりだ。
ピアノの前に居られる大切な時間を失うことになりかねない。子どもながらに必死だった私は、
主旋律に加えて左手の伴奏を可能な限りひねり出して演奏を続けた。
自宅に帰れば、ピアノに触ることは出来ない。
頭の中で鳴っている音を確認する手段はなく、毎日がぶっつけ本番であった。
思えば私の中の「見えないピアノ」の骨組みは、その頃作られていったのだ。
ー続くー
見えないピアノ 1 [見えないピアノ(自叙伝、のような)]
人生、何が幸いするか分からない。
私の頭の中に「見えないピアノ」があるのは、あの日のおかげだ。
その頃まで、我が家は裕福だった。小さいながらも会社を経営する父は、
さほど子煩悩な方ではなかったが望みは何でも叶えてくれた。
ピアノと電子オルガンも、当たり前のように部屋に置かれていた。
そんなある日。私たち家族を取り巻く状況は一変した。
父の部下が会社の財産を全て持ち逃げしたのだ。
身内にもあたるその人に実印も預けていたお人好しの父は、
突然大きな借財を抱えることになった。
さあ一大事だ。当時小学生だった私は、突然踏み込んできた男達が
ピアノと電子オルガンを持ち出そうとするのを必死で止めた。
あの人達は何だったのだろう。借金取りなのか、差し押さえにきた人たちなのか。
母に聞いてみればいいようなものだが、悲しいことを思い出させるに忍びないので
確認は出来ずにいる。ともあれ、私が足にしがみついて懇願したにもかかわらず、
その人達はあっという間にピアノと電子オルガンを運び出し、
買ってもらったばかりの音楽事典までも持って行ってしまった。
残されたのは何冊かの楽譜と紙鍵盤。
時代は昭和、簡単に持ち運べるキーボードなんてまだなかった頃の話である。
ー続くー